日本一の西郷隆盛像が迫力のある西郷公園。
西郷隆盛や明治維新に関する資料、軍服、西郷さんにまつわるエピソードなどが展示されています。
西郷隆盛像は昭和63年8月に建立、高さ10.5メートル、重さ30トン、台座の高さ5メートル(古賀忠雄作)実在する人物の銅像の中では日本一と言われています。
1977年(昭和52年)の西郷没後100年顕彰事業として関西在住の鹿児島県出身者らが京都市の京都霊山護国神社に建立する計画を立て、彫刻家・古賀忠雄に発注して作られたものです。発注者の死去により計画が宙に浮いたため、富山県高岡市の倉庫に10年以上も保管されたままの状態となっていました。
それを知った当時の溝辺町の有志が古賀忠雄の遺児で彫刻家の古賀晟らと協力し、像を現在の場所に誘致すると共に一帯を公園として整備しました。
住所:霧島市溝辺町麓856-1 電話:0995-58-3153
明治政府では、西郷隆盛の推薦で欧州の警察制度を視察し、それを基に日本の警察制度を確立させた人物です。
その後、警視庁創設に伴い満40歳で初代大警視(後の警視総監)に就任します。
西南戦争では、警視庁で選抜した抜刀隊が活躍し、皮肉にも西郷自らが提言し推薦した警察部隊と川路により西郷は追い込まれていきました。
西郷隆盛によって見出された川路利良が仕事を全うすることで、ある意味では西郷隆盛に対して恩義を返す国を思った答えだったのかもしれません。
薩摩藩の財政を支えた山ヶ野金山。鹿児島にある金山の中でも主力の金山として繁栄しました。御座所と呼ばれる藩主の来関所もあり、島津斉彬なども訪れていたそうです。山ヶ野金山の歴史は、寛永17(1640)年、宮之城領主・島津久通が夢のお告げによって発見したことによって始まります。最も繁栄していた頃で約2万人の鉱夫が働き、あまりの産金量の多さに幕府から採掘の停止を命じられるほどだったそうです。江戸時代を通じて藩の重要産業であり、明治時代に入るとフランス人技師による鉱山の近代化が図られ、明治40年には現隼人町水天淵に金山専用の発電所が建設されるなど産金量の拡大が図られました。
昭和18年に休山となるまで産出された金は約80トン。現在も稼動している菱刈鉱山、有名な佐渡金山に継ぐ産出量です。
まるおか桜苑では,心の込もった「純手打」の丸岡そばが大好評です。特に,桜・つつじのシーズン中は,昼時になるとレストラン内は満員になり,名物そばを注文する人が多く,昔ながらの「本物」の味に舌鼓を打つ人でにぎわいます。また,黒豚料理も大好評です。ぜひ御賞味ください。
西南戦争の時(1877年8月30日)、西郷軍本隊が踊郷宿窪田まで後退してきました。
その時西郷どんが宿泊したのが、この地の前田万兵衛氏の家でした。この戦には牧園町から208名の人が出兵しています。まさに西南戦争というのは鹿児島全土の人たちが従軍するかたちで戦いました。
官軍側の見張りが近くに居たにもかかわらず、西郷どんを匿ったのは薩軍贔屓の人々が多かったことを物語っています。
官軍と西郷軍が戦った最前線の地、今もなお地中には当時の銃弾などが数多く埋まっているそうです。
敵から見つからないように穴を掘り、そこから銃撃を行っていました。今は森になっていますが、昔は見通しの良い丘になっていました。牧園の5km周辺には300個以上の堡塁跡が見つかり、その殆どが西郷軍のもので、激しい戦いが行われていた様子が伺えます。
踊州の従軍者の記念碑。この地域が官軍との戦いの防衛線だったため当時は激しい戦場になっていました。西南戦争は西郷軍にとってはとても過酷な戦争でしたので沢山の方が亡くなられています。その亡くなられた方達を追悼するために建てられた招魂碑です。